出先で感じることは、浄土真宗のお寺が多い、ということです。
以前から、そのように思っていましたが、最近また改めてそう感じます。
二年前、私は仏教について知りたくなり、仏教検定三級を取りましたが、それはあまりにも私の知識が少ないためで、お寺のことにも詳しくないです。
私の家は、真言宗と聞いていますが、真言宗と浄土真宗の違いは?と、聞かれると、開祖した人の名前くらいしかわからないです。
仏教の各宗派の違いも知らないし、興味もなく過ごしてきましたが、ここへ来て、ちょっと知りたくなってきました。
そういう年齢、というのもあるかもしれないです。
最近の私の目の前に現れるお寺が、浄土真宗の本願寺派、もしくは大谷派ばかり。
なんだか、だんだん、気になってきました。
仏教というのは、お釈迦様の教えで。
お釈迦様は、悟りを開かれた方で。
宗派があるというのは、弟子がたくさんいるということで、悟りへ至るための方法に、それぞれの違いがあるのでしょうと、私は認識しております。
若い頃は、何の知識もなくて、「神に頼む」の意味を、「誰かに頼るなんて・・・」と、自分で努力をしない人のように解釈していました。
50代の半ばを過ぎた今、思うのは、「神に頼む」は、「様々な物事を手放す」ということなのだろうと。
随分長い間、私は、何でもかんでも自分の頭で考えなければならないと、それが努力だと、思い込んできた節があります。
しかし、実は全然そうではない。
目の前にやってきたことを、心を込めてやる。
多少、不本意に感じることであっても、ひとまず、心を込めてやってみる。
そして、そこで考えるのではなくて、感じることが大切だと。
メリット・デメリット、費用の高低、世間一般的な物差し等々、種々論点はあっても、それよりも自分はどう感じるのか。自分が感じる方、ピンとくる方、それに力を注ぐ。
私の個人的な見解ですが、「神に頼む」は、そういうことを意味しているのではないかと、思うわけです。
自分の肩に乗せて歩いてきた、様々な荷物を降ろして、ただ、自分がこれだと感じる物事に、感謝をしながら心を注ぐ。
そうすれば、やがて、大輪の花が咲く時がくる。
手放すと、必要なモノが入ってきますね。
メリット・デメリットの算段を、頭の中で考え続けなくても、自分がやるべきことは、目の前に出てくる。
考えるのではなくて、感じなさいと。
それに気付きなさいと。
そんなことを感じる、初秋の朝です。
昨日は、23時、一昨日は、22時半に寝るという、早寝早起きをしております。
やっぱり、気分いいですね。
これまで、そんな遅くまで、何をやっていたんだろうと思うほど、深夜にやることがなくなってきました(笑)。
浄土真宗に、大谷派(東本願寺)、本願寺派(西本願寺)があるのは、浄土真宗の力が強すぎるので、弱めるために、時の政府が二分したと聞いたことがあります。
信者・信徒の数が一番多いのが、浄土真宗。
お葬式の方法が違うとか、細かい差異は色々あるようですが、檀家制度などの昔の風習も、段々と薄れていっています。
お墓も、「墓終い」という言葉を聞くようになって久しいです。
今後はさらに、宗派という括りも、薄れていくのかもしれないですね。
- 荷物を降ろす
- 持ち物を手放す
- そして、目の前にやってきたことに心を注ぐ
選択に迷う時は、「愛のある方」、「神様が選ばれるだろう」と感じる方を選ぶ。
今日もよい一日を。
ご訪問、ありがとうございます。